とある閑静な住宅街の一角に、ひっそりとたたずむ小さな洋館。
木々にかこまれたその建物には、さまざまな悩みを抱えた人たちが、次から次へと訪れます。
「マダム・リリー」
この洋館でサロンを営む女主人を、彼らは皆そう呼びます。
本名、年齢、経歴不詳。
どんな悩みに対しても、「私も経験あるわ」が口癖で、普通は言いにくいようなことでも、サラッと一刀両断するのがマダム流。
解決できるかわからないけれど、そんなマダム・リリーの話を聞きに、悩みを抱える人々が昼夜を問わずやってくるのです。
さて、本日昼間にやってきたのは、バッグに小さなマタニティマークを控えめにつけ、少し目立ちはじめたお腹に手をそえる妊婦さん。
頼りなさげに眉根を寄せて、サロンの門を見上げています。
いったい、どんな悩みを抱えているのでしょうか?
ミサ(35歳)のお悩み相談 お産が怖くて……
リリー「あら、いらっしゃい。妊婦さんね。そのお腹だと、今7ヶ月ってとこかしら。どんな悩み?」
ミサ「はい、今7ヶ月の妊婦です。あの、実は私本当にヘタレで、出産時の痛みが怖くて仕方がないんです。経験者の皆さんは大体、地獄のような痛みだとか言うし。
元々、痛みとか血とか、そういうのに極端に弱くて、ちょっとしたことですぐパニックになっちゃうんです。お産なんて、恐怖と痛さで気を失っちゃうんじゃないかって……。」
リリー「それなら、無痛分娩も候補に入れてみてはどう? あなたのようにパニックになりそうな人は、むしろそっちを勧められることもあるって聞くけど。今から良い病院が見つかるかはわからないけれど。」
ミサ「そう、それなんです。私もそう思って、はじめから無痛分娩のできる病院を探して通っていたんです。料金は10万円くらいプラスになってしまうけど、お金には変えられないと思って。
けど、そのことを義母に言ったら、『女性なら皆その痛みに耐えて子どもを産んでるのに、そんなの贅沢よ。』とか、『お産は自然のことなんだから、女性はその痛みにも耐えられるようにできてるの。麻酔なんて自然じゃないことして、赤ちゃんに何かあったら大変じゃない。』とか……。」
リリー「それに、こんなことも言われなかった?『お腹を痛めて産むからこそ、子どもへの愛情が芽生える』とかいうようなこと。」
ミサ「はい!そうです。言われました。」
リリー「出たわね。日本人特有の『痛みに耐えてこそ』神話。ふふ、私が嫌いなやつよ。それで、お姑さんにそう言われたからって迷ってるわけ?」
ミサ「……はい。確かに、周りのほとんどの女性は自然分娩で産んでるし、自分が痛いのが嫌だから麻酔を使うなんて、贅沢で甘ったれなのかなって思えてきて。
それに、これから何かあるたびに、お義母さんに『お腹を痛めて産まなかったからだ』なんて言われたら嫌だし……。
夫もはっきりとは言わないけど、そんなに賛成はしていない感じだし……。
お義母さん以外の人にも、何となく無痛分娩を選んだって言いにくい気がするんです……。」
リリー「ああ、もう!うじうじ悩む前に、まずは、無痛分娩についてよく知ってから考えなさいよ。私は、自然分娩も無痛分娩も経験あるわ。私が知ってることと経験したこと、教えてあげましょうか?」
エリカ「はい、お願いします!マダム・リリー!」
マダム・リリーが語る 無痛分娩とは?
リリー「まず、現在、無痛分娩としておこなわれている主なものは、『硬膜外麻酔(鎮痛法)』といって、背中の脊髄に近い部分から局所麻酔薬を入れて、痛みを伝える神経をブロックする方法ね。
無痛といっても、始めから終わりまでまったく痛くないという場合は少なくて、始めは普通に陣痛を経験して、痛みが激しくなってきたら麻酔を注入する場合や、産むときの『いきむ』感覚を残すために、完全に痛みを取り去らないように麻酔の量を調整する場合など、病院によって様々よ。
欧米ではごく一般的な出産方法で、約150年もの歴史があるそうね。経膣分娩をした女性の中で、フランスでは約8割、アメリカでは約6割が無痛分娩だけど、日本では、わずか4%程度なんですって。これでもだいぶ増えてきたっていうんだから、同じ先進国でも、こんなにも出産方法が違うなんてびっくりよね。
他の医療分野では欧米発祥の技術がどんどん取り入れられてきたのに、どうして出産方法だけこんなにも違いがあるのか不思議に思うわよね。それはやっぱり、日本人に特有の『痛みを我慢してこそ美徳』、『お腹を痛めてこそ母性が生まれる』っていう、ほとんど神話的考え方に寄るところが大きいみたい。
はっきり言って、自然分娩だろうが帝王切開だろうが無痛分娩だろうが、子どもに対する愛情や母性に差があるなんてことはないわよ。私はどれも経験してるけれど、我が子は皆等しく愛しいわ。
そんな単なる根性論に振り回されて、本当に痛みに弱い人が、選択肢を狭めてしまうのはもったいないわよね。出産の痛みって、痛みの指数でいうと、指を切り落とすのにほとんど相当するほどのものらしいわよ。それって、拷問と同じくらいってことでしょ。それほどの痛みに対して、出産は神聖なものだからといって、『麻酔はだめだ、我慢しろ!』って他人が強制するなんておかしいわよね。
最近は日本でもだいぶ広まってきていて、無痛分娩に興味のある妊婦さんも多いらしいけど、どうしても地域格差があるのが現状よ。確かに、高度な技術を要することだから、なかなかそれをできる人材や設備が、全国にいきわたらないのよね。
それに、経済的理由から、プラス料金を何万も払うくらいなら、自分が痛みを我慢するって思う人も実際には多いみたい。
もっとすべての女性たちが、同じように選択肢が広がったらいいのにって本当に思うわ。あなたは、とりあえず選択肢として無痛分娩があるのだから、恵まれている方だと思うわよ。」
ミサ「そうですよね。せっかく無痛分娩が選べるのに、やめるなんてもったいないですよね。お義母さんにもう1度聞いてみます!」